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2007 vol.18 |
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特 集 |
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●「同窓会会長の任期をふりかえって」 |
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私が同窓会会長を務めた4年半は、創形美術学校が新校舎を建て移転し、創形美術学校の卒業生である藤山貴司氏が校長となり創形美術学校のイメージが大きく変貌した時期でもあり同時に受験人口が少子化によって減少、運営的には厳しい判断が求められる状況にありましたが、新校長はそういう中で学校運営を成り立たせ、更に創形が現在まで築いてきた教育理念をベースにしつつ、これからの美術教育の在り方を、幅広い視野で見据えながら、創形美術学校という大きな船の舵取りをしているように私には見えます。このような厳しい状況は、創形に限らず、全国の大学、専門学校が抱えている大きな問題であるのは間違いないでしょう。それ故に我々同窓会の一つの役目として如何に学校をサポートするか求められていると思います。 同窓会は1992年に第1代会長の林信行氏を中心にその有志の先輩方によって立ち上げられ、会報の発行及び卒業生名簿作成等行い同窓会会員間のコミュニケーション手段の骨組みを作り、同窓会を形態化する上で大きな意味があったと思います。又、第2代会長中村信夫氏の任期中の6年間においては、同窓会会費の入学時徴収制度の導入により同窓会運営の基盤が確立され、それによって新たな企画をたてられるようになり、卒業制作展おける同窓会特別賞の授与及び同窓会展の主催等が可能になり、卒業生を励まし更に制作発表の場を提供し同窓生をサポートすることによって同窓会としての役割を1つ1つ実行して来ました。 さて、その後を引き継ぎ私が会長を務めた4年半ですが、一言で言うと大きなイベントもなく新たな企画があったわけでもなく、とても淡々とした期間であったと思います。だからと言って何もしなかったと言う事ではなく、常に常任幹事会で議題を提案し、同窓会の在り方を模索し、熱い討論もありました。そういう中で提案されたのが、常任幹事の岡崎純生氏の担当したホームページの立ち上げでした。そこではまず同窓会のプロフィールを紹介、又卒業生の制作活動の紹介(個展、グループ展)更に同窓会運営記録の紹介(卒業制作展、オープニングパーティ)同窓会特別賞の授与、同窓会展の作家及び作品紹介等、他方では創形美術学校クリエーターズファイルの掲載を行い外部に対して情報を発信し、外とのコミュニケーションの促進に大きく貢献しました。そして次のステップとして岡崎氏の後を引き継いだホームページ企画担当の磯島泰三氏(造形科5期卒)はホームページの充実を進め、更に常任幹事会での議事録を作成しそれを全常任幹事に発信し、幹事間のの連絡をスムーズにさせ、同窓会としての機能を向上させました。そしてインターネットによる通信、及びホームページは、これからの同窓会運営においても、重要なコンテンツと確信しております。 又、そのホームページと同様に、重要視してきたのが、同窓会支部の立ち上げです。現在まだ一部で活動があるものの明確な形にはなっておりませんが、これから時間を掛け、ゆっくりと形成していこうと思っています。現時点では埼玉支部が活動を開始し、05年、06年と埼玉支部による「ブランチ展」が開催されました。その他神奈川支部が活動を始め、京都でも支部の立ち上げの動きがあります。このような支部の活動が定着し全国に拠点が出来、同窓会が全国ネットになることを願っております。 次に私と同窓会の関わりについてお話ししたいと思います…。私が同窓会の運営に参加したのは1998年頃と記憶しております。正直言って創形を卒業して間もない頃は同窓会を考える余裕がまったく無く、制作と生活の事で精一杯だったと思います。が、その後同窓会が発足した頃も、私自身は予備校をスタートした時期で、同窓会の連絡を頂いてもまったく参加できる状況ではありませんでした。その後、自分の生活ペースも少し落ちついた頃に幹事の方より声を掛けられ参加することになりました。年齢的には48才でした。そう考えると創形は若い学校で50才以下の卒業生が殆んど同窓会運営に参加して同窓会のために何かを・・・と考えることの出来る卒業生は殆んど無く制作と生活で必死に生きているのが現状でしょう。通常、他の大学の同窓会を運営している人達は現役を引退して比較的時間的にも経済的にも余裕のある人が半分興味としてやっていることが多いと思います。それに対して現在創形美術学校同窓会を運営しているのは30代、40代の幹事が中心で、余裕とか興味でやっているのでは無く、本当に忙しい時間を裂いて集まっている有志達だと思います。私にとっても会長を務めた4年半は、創形の行事に合わせて自分の仕事を調整しながら時間を作っていた事がよくありました。又、同窓会運営について思うように行かず自己嫌悪に陥ることも何度かありました。でも創形に行くことで美術の現場に触れるという刺激があり、自分のアトリエに戻り制作意欲を掻き立てられた事も度々ありましたので、私は会長をしながら創形から制作エネルギーをもらっていた・・・気もしています。 そして会長の任期中で想い出に残るイベントとしては創形美術学校と同窓会が協賛して、実行委員が主催した井上新太郎展がありました。井上新太郎氏は1985年に事故で36才という若さでこの世を去った創形美術学校、造形科1期生の才能ある美術作家でした。新太郎さんは同時に創形において助手、修復研究室のスタッフ、更に創形の事務局長として創形美術学校の創成期を支えた有能なスタッフの一人で彼は私にとっても2年間助手、副手という形で一緒に仕事をしていましたので上司であり、先輩であり、兄のような存在でした。当時創形は国立に校舎がありその4階に助手室があり教務の仕事が終わると新太郎さんは個展のなどは作業台に向かって黙々と材木をカンナで削ってはメデュームを塗る作業を繰り返し又しばらくすると椅子に座り、ポカーンと窓の外を眺めながらタバコを吸っていました。その姿は今でもしっかり私の記憶に残っております。そして制作の無い時はほとんど毎日国立の駅前の安飲み屋で仕事のことやら制作の話をしていました。又、ある時夜中にいきなり電話を掛けてきて”仕事のどうのこうので話したい”と呼び出され国分寺から東小金井まで自転車を飛ばして新太郎さんのアパートまで行ったこともありました。・・・今ではいい想い出です。おそらく彼ほど創形を愛していた卒業生は他にいないでしょう。そんな新太郎さんの展覧会の準備を進めていて嬉しかったのは展覧会の数ヶ月前に藤山校長と数名で作品の下見をするために栃木の新太郎さんのお母さんに会いに行った時、お母さんは高齢で足が不自由にもかかわらず私たちの訪問を喜び、精一杯もてなして頂き大切に保管してあった作品を快く見せて頂いた事です。そして心残りなのは展覧会には高齢のため上京することが出来なく実際に展覧会を見て頂くことが出来なかった事です。本当にありがとうございました。 最後に会長を務めた4年半の想いをつづる文章は上手く表現できませんでしたが、今後は常任幹事として残り神奈川支部の立ち上げに協力したいと思います。 07.4.30 同窓会会長 渡辺 勇 |
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シリーズ「あの時の卒業生は今」 |
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今回のような作品制作のきっかけは、創形2年在学時の桜井ゼミのテーマ「見えるものから見えないもの」への変容です。人体や風景、静物、その組み合わせや分解で平面を構築していく制作方法が主体でした。キュビズムや未来派などの作家から誘発された作品が多かったようです。(ピカソ、ブラック、ドローネー、レジェやデュシャンの初期、ボッチョーニ等)浪人中はF15号から30号の画面でしたからF50から100号の大きな画面に描くのは大変でしたがやりがいもありました。桜井先生は常々、美術の文脈という言葉を使っていました。美術の文脈の中で自分の制作の源がどの位置にあるのか、それを考えながら制作を続けなさい。そして、社会に出れば必ず複雑骨折することになるんだからそれを覚悟して卒業しなさいと言って制作を続けることの難しさを伝えていました。1990年にいただいた言葉では、「我々の制作は右、左にゆれながらもあることを求めて考え、続けていくことがあるでしょう。今振り返って自分のことを見るとき、何だかだといいつつも調子良く周りを見て変わっていたようで、やはりまっとうな作家は、じっと、一つ所をみつめくり返し、にらめつけているところがあります。二瓶よ、あまり表現形式(様式、スタイル)に気をとらわれず、じっとこらえて、にらめっこして考えて、すこしでもすすめようとしましょう。」とも書いています。その言箱噛み締めながら制作してきたと思います。また、当時の校長柏先生は国画会、寺島先生が独立美術協会所属でした。卒業して地方に帰るのであれば、絵を続けていけなくなる可能性も高い、個展だけでやっていくのは大変ではないか、一年に一回でも締め切りがなければしんどいのではないか、お前の絵の傾向では国画のほうが向いているとアドバイスを受け、今にいたっています。 さて、長かった浪人生活に終止符を打ち、その安堵感と受験失敗の痛手を引きずりながら創形亥美術学校での新生活が始まりました。入学が決まった時には自分を受け入れてくれる場所ができて本当に嬉しかった。その頃の創形は国立にあって大学通りは広く、近くには谷保第三公園もありのどかで環境の良い所でした。年の離れた同級生や、同じ年の上級生、個性的な先生方に囲まれて研究科までの4年間を充実して過せました。それに、何と言っても絵を描く時間を長く取れることが魅力でした。また、古典技法の実習、私が受講した当時は、モザイク、黄金背景テンペラ、グリザイユ、版画実習(エッチング、リトグラフ)、彫刻実習など魅力的な授業が多かったです。ニ年時からは、三クラスに分れゼミ形式の授業をしていたと思います。放課後や休み時間には、学年や科(当時は造形科と版画科だけでした)を問わず各アトリエを見て回り、だれかれとなく絵の話をしました。同期生が私の絵について語ってくれたことが10年後にようやく理解できたり、絵を続ける励みになっています。 表現手段は、平面作品にこだわり、内部空間に展示します。また、野外空間に展示する場合でも立体の意識はなく常に正面からの視点を意識して造っています。基底材は創形で作り方を習得したエマルジョンキャンバスを多く使用しています。 題名は「水平線を見る人」として制作を続けていますが、初期は自宅から徒歩で10分程離れた所にある合浦(がっぽ)公園から臨む海の風景に女性のヌードの立像を組み合わせたものでした。晴れた夏の海辺で海水浴を楽しむ人々の声、穏やかな陸奥湾に浮かぶ船や波消しブロックのそばに係留されたヨット、視界の両端に見える半島、遠い水平線、その場で感じる開放感、浜辺の日常的な風景から遥かな精神的な世界へ誘うミューズといった図式でしょうか。本来水平線はありません。空と海の境目が線のように見えているだけです。言わば見えている部分と見えない部分の境界線です。そこから発想を展開して風景と人体を組み合わせ、体の動く軌跡を円や円弧として表し、一度人体や風景の形を分解してから組み替えてモザイクのように細部を繋ぎ合わせ全体感を持たせるようにします。画面の浅い空間の中に線や色面を配してそれぞれが位置を持ち物の形はあってもそれ自体のイメージはできるだけ排除してこちらの意図を強要するのではなく、絵を見る人がイメージを膨らませて画面に参加できるように仕向けたいと思っています。更に、色はなるべく混ぜないで原色に近い彩度のままで使います。一筆ずつ積み上げるように大切に重ね、手を加えてもよいと確信を持てるまでは筆を入れないようにします。そのために新鮮な目で繰り返し見て次に打つ手を考えます。無理に手を加えていないか常に問いかけて粘り強く絵が進むための糸口を見逃さないように単純で無駄に見える作業を繰り返します。時には具象的に時には幾何学的に揺れ動きながら水平線の広がりが感じられるように意識しています。そして、絵を通じて生きていることの喜びやすばらしさを伝えたいのです。画面を見ることでじんわりとそれを感じ取れたらよいと思います。 発表の場は主に国展です。100号サイズを五枚並べて描きます。二年に一回は個展もできる枚数を残しておこうと考えています。一枚にこだわると行き詰まったり、作業が空回りし易いのですが、連作だと隣の絵との関係で意識が画面の隅々まで行き渡るようです。連作でも一点でも独立した作品に見えればよいと思って描いています。 今回の個展で久しぶりに同窓生に逢ってみると、時は流れて住む場所や表現手段が変わってもあの時と同じアトリエでキャンバスを並べて絵を描いているままに今でも制作について考え共に制作しているような気持ちになりました。 また、絵を通じてたくさんのすばらしい人々にも出会えたことを再認識できました。私はその思いを心に留め故郷青森で絵を書き続けていきたいのです。 |
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●京都支部 | ||||||||||||||||||||||||||
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西村俊廣 造形科2期(坂本一道先生のクラス)の西村俊廣です。京都市で頂相(ちんそう)という伝統的な禅僧の肖像画を描く仕事をしています。仕事を始めてもうすぐ30年になります。同窓会のリンク集に載せておりますのでご覧下さい。 私は現在[京都アートカウンシル(KAC)」という自称芸術家グループに所属しておりますが、京都芸大卒が中心のグループで、[よそ者」という何か寂しい雰囲気を感じております。関西在住の同窓諸氏は如何でしょうか? そのKACで私と犬猿の仲の「馬鹿野郎」共が,私を幹事に推挙して,最下位で当選してしまいました。この先の会の運営はどうなることやら・・・。唐突ながら,あまり居心地がいいとはいえませんが、取り敢えず我が会に入って頂いて、交流を深めた上で『「京都支部立ち上げ」もいいんじゃないかなぁ』と身勝手な事も考えます。 それでは「乞う、連絡」
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連絡先 〒606-8102 京都市左京区高野清水町142 西村俊廣 |
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支部だより | ||||||||||||||||||||||||||
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●埼玉支部主催「Branch Exhibition 2006」が開催されました | ||||||||||||||||||||||||||
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